【感染症と美術の効用】

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コロナ禍によって、70年以上前の小説「ペスト」がヒットしているようです。アルベール・カミュによって書かれたこの作品は、感染症である「ペスト」の蔓延によって人々の精神や生活がどのように変化していくかが描かれています。

ヨーロッパでは、14世紀〜15世紀にかけて実際にペストが流行ったそうですが、現在よりもずっと未発達な医療によって恐怖を感じたであろう人々の動揺、困惑、そして流言飛語によって繰り広げられる愚かな行為が、とてもリアルなものとして実感できます。

振り返って考えると、科学技術が相当に発達した現在においても、感染症によって人間が感じる恐怖やその行動の愚かさというのは、それほど変化していないように感じます。本当に人間て進歩しないですね。

日本でも、天然痘や麻疹、赤痢やコレラなどの感染症が何度も流行してきた歴史があります。その都度、その原因を鬼や妖怪などの超自然的なものに求めて、それらを鎮めるために、加持祈祷や祭礼が行われてきました。京都の祇園祭の起源も疫病の流行がきっかけだったと考えられています。

中でも注目したいのが《疱瘡絵》や《百鬼夜行絵巻》。《疱瘡絵》は、浮世絵の一つのジャンルとして確立されていますが、疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られたりして使われたようです。病気の原因を鬼や妖怪として考え、それを具体化することで、精神的な落ち着きを求めたのかもしれません。

妖怪たちが行列をする絵巻物《百鬼夜行絵巻》は、室町時代から明治・大正頃にかけて多数制作されていますが、その成立は《疱瘡絵》と同様に疫病の原因を妖怪と考え、それらを目に見えるカタチにして理解し、それらと共存しようとする先人の知恵によって誕生したのではないでしょうか。

葛飾北斎(1760〜1849年)、歌川国芳(1798〜1861年)、河鍋暁斎(1831〜1889年)らも、疫病がらみの作品を描いています。これらの作品は、見て楽しむためというよりも、死を身近に感じて不安が蔓延する社会の中で、何らかはっきりとした精神的な効果がもたらされていたのだと思います。 そういえば、アマビエという妖怪の絵が流行っていますね。つくづく人間は、進歩しないものだなあと感じてしまいます。

「根付」が「小宇宙」と呼ばれる理由

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根付は江戸時代に流行ったおしゃれ小物です。「手のひらに収まる小宇宙」とも呼ばれる理由はどんなところにあるのでしょうか。

実用的かつ精巧な作り

根付は置いて鑑賞するものではなく、あくまでも実用品として使われることを前提にした作りになっています。見た目は手のひらサイズでありながら、上下左右どこから見られてもいいように隅々までしっかりと彫刻がされています。また、ぶら下げて持ち歩くものなので、危険がないように丸みを帯びたデザインが採用されます。動物でも人でも、全身を小さな丸や楕円の中に収めるようなポーズに工夫することで、愛らしさや、時には躍動感などをリアルに表現します。ひとつの小さな根付を作るのに一ヶ月かかるようなものもあるそうです。

知的なアピール・遊び心

根付そのものが謎掛けになっているものを「判じ物」と言います。例えば「草履」で旅を表し「蛙」を帰ることに見立て、草履の上に蛙を乗せたデザインにすることで、旅から無事に帰ってほしいと表現できます。大切な思いを込められたり、伝えたりすることができるお守りのような存在としても愛された背景があります。

変色してすり減っている方が良い?

年月が経って変色したりすり減った状態を「なれ」と呼びます。たいていの骨董品は状態が良いほど価値が高くなる傾向があります。しかし根付は、変色しても彫りがすり減ってところどころ無くなっていても、それが「味」となります。人々の手を渡りながら使い込まれ、どのように現代まで引き継がれてきたのかを想像すると、時間の経過の重みを感じずにはいられません。

日本人は昔からこのような小さなものに魂を宿してきました。細部に技術や心を集約させ、それを粋に楽しむという精神が「根付いている」のかもしれませんね。

【我々はどこから来たのか、我々はどこへ行くのか!】

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長引くパンデミックですが、ようやくいくらか落ち着きをみせてきました。そして、今度はアフターパンデミックの社会や経済についての予測がさまざまに喧伝されています。我々はどこへ向かうのか。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》は、ポール・ゴーギャン(1897〜1898年)の代表作です。ほとんどの方は、フランスの画家ゴーギャンをご存知だと思います。ゴッホとの共同生活と喧嘩別れの逸話も有名です。では、そのゴーギャンが、専業画家になる前、証券会社のサラリーマンだったことはご存知でしょうか? 

ゴーギャンは、23歳から株のブローカーとして働き、オランダの裕福な階級の奥さんと結婚して子どもを5人もうけています。経済的には相当にリッチで、当時流行の印象派、ルノワール、マネ、モネ、セザンヌ、ピサロなどの絵画をコレクションし、休みの日には自らも趣味として絵画を描いていたそうです。

そんなゴーギャンが、なぜリッチで安定した生活を捨てて、最終的に客死するタヒチへ渡っていくのか。それは〈創作への情熱〉から? というイメージも湧いてきそうですが、実はその理由は、1882年にフランスで起こった金融恐慌、大きくレバレッジをかけた取引が原因のバブル崩壊でした。

それまで優秀なブローカーとして活躍していたということは、パリ証券取引所での株価暴落によって、自分自身も取引相手も大きな痛手を受けたことは間違いがないでしょう。それによって、価値観が大きく変わったというのが、わかりやすいところでしょうか。

画家になれば、経済的に再び成功できると考えていたかどうかはわかりませんが、それまでの生活水準は全く維持できず、生活が貧しくなった時、奥さんは、実家に帰ってしまいます。踏んだり蹴ったりですね。奥さんを追いかけて、一旦奥さんの実家でマスオさんをしてサラリーマン生活に戻ろうとしたようですが、妻の実家の冷たい仕打ちに耐えられなかったのかどうか、パリに戻ってしまいます。 タヒチに渡った時には、ほとんど無一文。船員として働いてお金を稼ぎ、下船したのがタヒチだったというのが真実のようです。当時、生活費の安いタヒチは暮らしやすかったのでしょう。そんな風にしてタヒチにたどり着いたゴーギャンに、親近感を感じてしまいます。でも、最終的に歴史に名を残すアーティストになるのですから、才能があったのは間違いがないようです。

【本物のアーティストとは、どのような人か】

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成熟した豊かな社会では〈人は好きなことしかやりたくない〉という存在になっていくのだと思います。もちろん、それぞれの事情によって、そんな風に好き勝手に生きている人ばかりではないのは承知していますが、衣食住が満たされた時、自己実現したいと考えるのが人間の自然な欲求だと思いますし、収入が減ってしまったり、多くの犠牲を払いながらも、やりたい仕事へのチャレンジを続けている人が、皆さんの周りにもいらっしゃるのではないでしょうか。

村上龍の小説の中に「本当の絵描きとはどんな人間か?」という問に対して、「1日24時間絵を書いていても飽きない人間だ」と答えるセリフがありました。まったくそのとおりで、画家に限らず、写真家でも音楽家でも一流のアーティストには、そんな時間の使い方をしている方がたくさんいます。

リアリズム絵画の第一人者、野田弘志は、自分の表現を追求するため、画壇から距離を置き、北海道に移住しました。ドキュメンタリー映像で見たそのアトリエには窓がなく、24時間安定した光源が保たれていました。その著作でも、アトリエで一日中作品に向かい合っている日常が紹介されています。

同じく中央画壇と一線を画して、奄美大島へ移住して生涯を終えた田中一村も、その生活の全てが創作活動につながっていたという記録が残されています。有名無名含め、同様の生き方をしている表現者は大勢いるはずです。ただ、その才能が広く認められ、経済的にも時間的にも自由に創作活動を続けることができるアーティストは、ほんの一握り。それでも彼らにとって、最も大切な事は創作し続けることです。そのために、他の全てのことは犠牲になっても構わないと、そんな風にも見えます。

一方、作品が売れて経済的に豊かになり、社会的に評価されることが、本物のアーティストであるという定義づけには、少し違和感を覚えます。社会的な成功よりも、自分の表現欲求に正直でいられる人。それが、本来アーティトと呼ばれるべき人達であり、幸福な表現者なのではないでしょうか。 サムライオークションでは、そんな幸福なアーティストを応援したいと思っています。

携帯ストラップは江戸時代から使われていた?

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皆さんは、携帯電話にお気に入りのストラップを付けていたことはありませんか?最近はスマートフォンが主流になり、いわゆるガラケーと呼ばれる携帯電話端末はあまり見かけなくなってしまいましたが、じゃらじゃらとストラップをぶら下げて個性をアピールするのが流行った時期がありましたよね。ということは、ストラップはここ20年くらいの比較的最近のおしゃれの形だったのでしょうか?いいえ、実は違うのです。携帯電話が世に現れるずっと前の江戸時代から、ストラップの元祖とも言えるものが存在していました。それが「根付」です。

根付とは

根付とは、江戸時代に流行ったおしゃれ小物のことです。数センチくらいの手のひらサイズで、印籠やたばこ入れなど、大名から庶民まで幅広く所有されていました。着物に巻いた帯に交差するように紐を通して、たばこ入れなどの本体部分を下にし、帯の上部にボタンのような形状のもので引っ掛けて落ちないよう持ち運ばれていました。携帯電話の落下防止のストラップみたいですね。このように使用するため、根付の条件は「紐通しの穴」があることと言えます。木の根っこや象牙で彫刻されており、神社へお参りしたときのお土産や記念品として購入されることが多かったようです。

現在ではコレクターも多く、小さいながらも数万円から数百万円するものまである骨董品です。

根付が流行した時代背景

江戸時代は幕府から倹約令が何度も出され、庶民の贅沢は許されませんでした。そこで、派手な着物を着る代わりに小物でおしゃれをして、それを競い合うことで流行が生まれたと考えられています。

昨今のコロナウイルスの影響で色々と自粛ムードが漂っていますが、歴史的に見ても、このような制約がある中から芸術というものはひねり出されるのかもしれませんね。

【アートを感じること、信じること、考えること】

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見えないウィルスによって、人心の裏側を垣間見てしまうようなニュースが流れてきます。人々の恐怖心と身勝手さとが、せめぎ合っているような印象です。

小林秀雄は『万人のように考え、個人として信じる』と語っています。物事の本質は〈万人に共通のものとして考える〉、信仰や生き方などは〈個人として信じる〉というような意味だったと思います。魂とか祈りとか、答えがはっきりしないものは自己責任で信じればよいけれど、科学や法律などは、万人に共通の真理として考えられるべきです。

感染症については、科学的知見に基づいて冷静に考えて対処すれば、行動の仕方には、万人にとっての正解があるはずです。

それでは、アートについてはどうでしょうか?

アーティストによっては、表現の目的・意図があり、それが作品鑑賞の正解と考えてしまいそうですが、作品が作者の手を離れた瞬間に独自の人格を持ってしまう以上、鑑賞者の感受性に正解や不正解はない気がします。好きなものは好き、心が動かされる作品が、その人にとっては良い作品です。

もちろん、作品ごとの背景を知り、特に近代以前の絵画など、そこに隠されている情報を読み取るためのルールが存在しますので、それらを学んで作者の意図を理解することもアートの楽しみ方ですし、学びによって作品への理解が深まり、ある種の正解に近づいたと、感じられることもあるでしょう。

ただ、万人にとって同じ価値(正解)を持つ作品というのは恐らくないため、基本的にアートは、各人がそれぞれの感じ方で楽しめば良いのだと思います。

創作も鑑賞も、アートは自由であれ!

サムライオークションは、アートファンの皆さまの心を自由にする作品を、できるだけ多く公開したいと考えています! 

【プライマリーマーケットとセカンダリーマーケット】

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外出することが減って、自宅で過ごす時間が増えました。暇な時間ができると、ついオークションサイトやらを物色してしまいます。今や会議や打ち合わせもネットの時代、一昔前なら市場に出向かなければなかなか得られなかった出物の情報が、自宅にいながらある程度確認できるようになったというのは、時代の変化を実感します。

ところで、美術市場には、プライマリーマーケット(一次市場)とセカンダリーマーケット(二次市場)があるのをご存知ですか?

プライマリーマーケットは、アーティストから直接作品を購入できるマーケットです。直接と言っても、アーティストと個人的な知り合いでなければ、間に画商さんが入りますね。主に画廊や百貨店などで展示販売されるアートフェアなどをイメージしていただくと良いと思います。

セカンダリーマーケットは、誰かのコレクションから、売りに出されるマーケットです。サムライオークションもセカンダリーマーケットです。出回っている作品よりも、買いたいという人の数が多ければ、値段が高くなっていくしくみは、アダム・スミスの神の見えざる手として、昔習いましたね! 需要と供給のバランスによって値段がつけられるということです。

ただ、一般的な商品とアート作品が違うのは、基本的に大量生産されることはないということ。そのためトップオークションなどでは、世界的に人気のアーチストの作品は、一般の人には手の届かない値段となり、庶民からかけ離れた縁遠い世界になってしまいます。

最近は、プライマリーマーケットも増えてきました。まだメジャーになっていないアーティストを応援するつもりで、自分の手が届く範囲から購入するのも楽しいですね。絵画だけではなく、陶器なども同様です。今は、極端な話、誰もが好きな分野でアーティスト=表現者になれるし、それを販売するためのプライマリーマーケットも、そここにあります。なんなら自分でネットショップを開いて販売しても良いわけです。いやはや自由で豊かな時代になりました。 でも、だからこそ、玉石混交のネットショップの中で、信頼できるオークションサイトが求められているとも言えます。サムライオークションも、まだまだ新参モノではありますが、日々目利き力を養いながら、誠実で正直な、皆さんから信頼され、楽しんでいただけるオークションサイトへ、成長していくことを目指しています。

水墨山水に込められた物語

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水墨山水とは

「山水」とは、山や川などの自然の景色のことです。つまり、墨で表現された自然の風景画のことを「水墨山水」と呼びます。9世紀頃の中国で墨の技術が向上し、墨だけで表現豊かな描画ができるようになったことで誕生しました。その後、禅の教えと共に日本へ伝わったと言われています。

物語を想像して楽しむ

掛け軸のような縦に長い水墨山水は、下から上へなぞるように見ていくことで時間の流れを想像することができます。水墨山水は、下から「近景」「中景」「遠景」と分かれており、近くから遠くへ歩いて行ける景色のような構図になっているからです。このように距離を感じることで、絵の中に吸い込まれていく気分を味わうことができるでしょう。

また、息を飲むような広大な自然の風景の中に、小さく人物が描かれている作品も多く存在します。それは決して風景の一部の飾りとして描かれているのではなく、人の内面や人生そのものを表現しようとしている作者からのメッセージが伝わってくると思います。たとえば「山」は世間から離れた安寧の場所を意味します。「老人」は作者自身、その老人が住む「小屋」は作者がひっそりと余生を過ごす場所を表現していたりします。険しい「山道」は生きることの過酷さだったり、川にかかった「橋」は自分を訪れてくれる友人がいることを表していることがあります。 このように、水墨山水はただの風景画ではなく、自分を物語の主人公に見立てて空想することができる芸術と言えます。作者のメッセージが凝縮されたモノトーンの世界から、物語を想像して楽しんでみてはいかがでしょうか。

【作家が嫌いだから、作品も嫌い、これってどうなの?】

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今、日本には、鑑賞者を静かに待っている有名な美術作品が沢山あります。特に国立西洋美術館で3月から開催される予定だった《ロンドン・ナショナル・ギャラリー展》。日本初公開の61作品、しかも美術史に名を残す、ビッグネームばかりです。

本日時点で開催予定日は未だ確定しておらず、本当に開催されるのか、心配になってしまいます。どうなるんでしょうか。

ところで、アートに限らずさまざまなジャンルで、作家が嫌いだから作品も嫌い、という方がいらっしゃいます。ピカソの作品はおもしろいけど、愛人を沢山作って女性を不幸にしたから嫌いとか。ワーグナーのオペラの偉大さはわかるけど、ヒトラーに応援されていたから、ポリシーとして作品を聞かないとか。

私は、作家と作品は別人格だと考えています。確かに優れた芸術作品は、作家の何らかが表出されたもの。したがって、作家が嫌いだから作品も嫌いというロジックは理解できるのですが、仮にその作家が作品で表現したかった《何か》は、あなたが嫌いな人格とは関係のない、人類に共通の《想い》であり、それを感じることで救われる人も沢山いる、という事はありうると思います。だとすれば、作家が嫌いだからと言って、特にビッグネームの作品を、食わず嫌いしてしまうのは、恐ろしくもったいないと、そんな気がします。

私は、スペインの画家ゴヤを尊敬しているのですが、その最も表現力に溢れた、一度見たら忘れられない『わが子を食らうサトゥルヌス』を、家に飾りたいとは思いません。ギリシャ神話を題材にしたこの作品は、示唆に富んでいますし、いつかプラド美術館でゆっくり鑑賞したいとは思いますが、手元において愛でたいという気にはならず、それはなんというか緊張を強いられるから、そんな理由だと思います。

以前、ある外資系金融のディーラーから、この作品が好きで自分への戒めのためにたまに見るのだと聞いて、とても納得した事を憶えています。ひょっとすると私にはまだその作品を鑑賞する実力とか、力量がないという事なのかもしれないと。

ある種の作品は、鑑賞者にも、鑑賞するための何かを求めてきます。その求められている何かを持っていなければ、作品側から受け入れらない、つまり好きになれないとかよくわからないとか、そんな事になるのかもしれません。やはり、学び続けること、成長していくことは、人生にもアートを楽しむのにも大切ですね。 サムライオークションは、皆さんに楽しんでいただけるサイトへと成長していくことを目指しています!

染付といえば伊万里焼

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染付とは

染付とは、白地に青い絵付けがされる磁器の装飾技法のことです。英語ではそのまま「Bule and White」と呼ばれており、主に呉須という原料が使われ、元々青色ではなく釉薬を塗って焼くことで青に発色します。釉薬の下に絵付けがされているため、洗っても薄れることがなくとても使いやすいのが特徴です。

製造工程は日本と中国で違いがあります。日本では形にしたものを一度素焼きしてから呉須で図柄を描いて、その上から釉薬をかけて再度焼きます。中国では、素焼きしていない状態で呉須で描いて、その上から釉薬をかけて焼きます。

代表的な染付の焼き物「伊万里焼」

伊万里焼は江戸時代の始めに佐賀県の有田町で誕生しました。その江戸時代に焼かれた古い伊万里焼のことを「古伊万里」とあえて分けて呼ばれることもあります。

ここで、骨董品として見る伊万里焼で知っておきたい特徴をひとつご紹介します。それは「ゆがみ」です。お皿を例にすると、横から見たときに多少のゆがみが見られるものが本物である考えられます。ゆがんでいたら技術の無い素人が作った偽物のように思えるかもしれません。しかし、温度計の無い江戸時代の技術ではどうしても焼き加減にムラができてしまい、それがゆがみとして表れてしまうのです。どこから見てもゆがみの無いキレイな水平の形をしている焼き物は、現代のコンピュータに制御された窯で製造されたものと言えるでしょう。 「伊万里焼」という分野があると言っても過言では無いほど、骨董の世界ではとても人気の焼き物です。基本的な知識を持っておくと楽しみ方が広がりますね。