【日本の芸術家「岡本太郎」の生い立ちについて】

こんにちは!《美術品・骨董品専門のオークションサイト》サムライオークションスタッフの利休です。

岡本太郎の名言「芸術は爆発だ!」というフレーズは誰もが一度は聞いたことがあると思います。岡本太郎の作品といえば、少し奇妙だったり、奇抜な配色であったりして、変な人というイメージがあるかもしれません。

岡本太郎は芸術の域を超えて私たちに何かを訴えかけている画家です。どのような人生を送り、作品にどのような影響を与えているのかを見ていきましょう。

1911年に生まれた岡本太郎は幼少期から「自我の強さ・妥協できない性格」で小学校を1年で退学した経験があります。(その後再入学)岡本太郎は「文学は知識が必要、音楽は歌唱力が必要、芸術は何をしても良い」といった趣旨の発言をしており、芸術の道へ自然と足を踏み入れたようです。

18歳になると、1人でパリに渡りました。理由としては、日本人画家だけで固まって、同じような風景画を描いている姿に失望したためです。フランス社会で自立したいと考え、11年ほどパリにいました。もっとも彼の心を揺さぶったのはピカソだったようです。自分の描きたいものを自由に表現するピカソに感銘を受けたようです。

その後は30代で戦争の徴兵に呼ばれるなどした後、自分の作品で数々の賞を受賞してきました。また、岡本敏子と出会い生涯の良きパートナーとなりますが、結婚はせず、養女として受け入れたそうです。その理由としては、幼少期の家庭環境が悪く独身を貫きたかったからだとされています。

代表作「太陽の塔」に関してのエピソードとしては、大阪万博博覧会の「人類の進歩と調和」というテーマに納得ができず、屋根を突き破る設計にあえてしたそうです。岡本太郎は「調和なんて卑しい、本当にぶつかり合わなければ調和などは生まれない」と言っています。「太陽の塔」は大阪万博終了後も永久保存されることとなりました。

そして、84歳で急性呼吸不全により生涯に幕を閉じました。

「死は祭りだ」と言って葬式を嫌っていた岡本太郎に配慮して葬式は行いませんでした。 最後まで自分を貫き通した岡本太郎ですが、「人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべき」でありそれが人間本来の生き方だと伝えています。

岡本太郎の名言の数々、改めて見てみると深いです。刺さります。

現在、東京都美術館にて「展覧会 岡本太郎」が開催中です。会期中に是非足を運んでみてください。

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【中国で骨董ビジネスが成長?若者にも骨董人気が上昇しているワケとは?】

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近年中国で骨董ビジネスが成長しています。とあるオンライン取引プラットフォームが香港上場を申請したことでも話題になっています。

今回はなぜ骨董人気が上昇しているのかを考察していきます。

骨董品の市場は年々右肩上がりに成長していますが、それ以上にオンラインでの骨董品市場がものすごいスピードで成長しています。

中国でオンラインでの骨董品市場が成長できた理由は大きく3つ挙げられます。

一つ目は「ライブコマース配信」が広がったことです。

中国ではライブコマース配信を使って、無料のオンライン鑑定をライブ中継しながらその場で行っています。リモート鑑定になるので、鑑定書までは出せませんがあからさまな偽物かどうかの判別はできるようで視聴者もそれを見て楽しんでいるようです。

日本でいう「お宝鑑定団」みたいなことをネット配信しているということでしょう。視聴者も段々と骨董品に興味が沸いてハマっていく人が増えているようです。

二つ目は「初心者と熟練者の差別化」です。

初心者には入りやすいように2000円程度の状態の良い中古を提供することで気軽に始めてもらえやすい環境を整えつつ、熟練者にも満足してもらえるように高額商品の出品も豊富に取り揃えています。

三つ目は「若者の参入」です。

若者が参入してきた理由としては、コロナ渦での外出自粛や国潮と呼ばれる自国のモノを見直すという現象によってでしょう。レアな中国製のフィギュアや昔の中国製のモノなどに興味を持つ若者が増えているようです。 以上のことから骨董品ビジネスが大成長している中国ですが、日本にもこのブームが来るのでしょうか。

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【フェルメールとは?生い立ちや作品の魅力や代表作について】

こんにちは!《美術品・骨董品専門のオークションサイト》サムライオークションスタッフの利休です。

フェルメールとは、17世紀を代表するオランダの画家です。1632年にオランダのデルフトという場所で生まれ、15歳で画家に弟子入りしました。

20代で父の家業を継ぎ、結婚もしました。画家と父の継いだ家業の二足のわらじを履く生活をはじめたのですが、フェルメールは存命中よりも死後に評価が高くなった画家で、借金の記録が残っているなどフェルメール一家は決して裕福な生活を送っていませんでした。1672年にフランスがオランダに侵攻したことでオランダの経済状況が悪化し、フェルメール一家の生活は破綻。家と店を失ったフェルメールはその3年後の1675年にデルフトにて亡くなりました。

フェルメールの生きていた17世紀のオランダは、貿易、科学、軍事、芸術などの様々な面で世界中から評価を受けた「オランダ黄金時代」と呼ばれる時代でした。市民はほとんど中流以上の生活ができていたようです。

フェルメールは光の表現に長けていた画家で、当時「光の魔術師」という異名がつけられたほどです。フェルメールは17世紀にはとても人気で高い地位を得ていましたが、18世紀には存在感を薄めました。

フェルメールの魅力が再発見されて、人気に火が付いたのはフェルメールが亡くなって200年後の1880年代後半のことです。

理由としては、フェルメールの作品数自体が生涯で30〜40点しかなかったことや18世紀はロココ美術と呼ばれる華やかなアートが盛んだったことが挙げられます。 フェルメールの代表作である「真珠の耳飾りの少女」は一度見たら忘れることができない絵画でレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」に対抗して「北方のモナリザ」と呼ばれています。

日本でもとても人気のあるフェルメールですが、残された資料が少なくまだまだ謎の多い画家です。その謎が、作品の神秘性を高めてより魅力的にしてくれているのかもしれません。

サムライオークションでは有名画家から無名画家まで幅広い美術品の出品をお待ちしております。サムライオークションはこちら

【人生で一度は行ってみたいルーヴル美術館】

こんにちは!《美術品・骨董品専門のオークションサイト》サムライオークションスタッフの利休です。

美術が好きな人もそうでない人も一度は聞いたことがあるであろう「ルーヴル美術館」について今回は取り上げたいと思います。

なぜルーヴル美術館が世界的に有名なのか、代表作から入場料や鑑賞時間についてもまとめてみました。

ルーヴル美術館とは、パリにあるフランスの国立美術館のことで、正式に開館したのは1793年です。収蔵品は38万点以上で、世界で最も入場者数が多い美術館として有名で、年間800万人を超える来場者がいます。

入場料は17ユーロ(約2,400円)で、所要時間は主要作品のみを鑑賞で2〜4時間程度、有名作品をじっくり鑑賞で1日程度、全コレクションを鑑賞で1週間程度かかるそうです。

とてもじゃないですが、全て見るのは難しそうなコレクション数となっています。

ルーヴル美術館にある代表的な作品としては「モナ・リザ(レオナルド・ダ・ヴィンチ)」や「ミロのヴィーナス」などが挙げられます。

オンラインが発展した昨今、ネットでも美術作品を無料で簡単に見れることは可能となりましたが、実物を見るとまた違った感情が湧き出てきます。

これは美術作品に限らず、骨董品などにも当てはまります。

画像で見るだけでは分からない実際の色合い、質感など近くで自分の目で見て確かめられることがありますよね。

世界的美術作品の実物を見たい人は、ぜひルーヴル美術館まで足を運んでみてはいかがでしょうか? 一生のうち1回体験することで人生観が変わるくらいの感動が待っているかもしれません。

とは言いつつ簡単に行けるところではありませんので、過去記事でもご紹介したバーチャルでルーヴル美術館を疑似体験してみてください。過去の記事はこちら

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【三井記念美術館「大蒔絵展」/静嘉堂「響きあう名宝展」】

こんにちは!《骨董品・美術品専門のオークションサイト》サムライオークションスタッフの井戸です。

11月13日(日)まで三井記念美術館にて開催されている「大蒔絵展」
12月18日(日)まで丸の内の静嘉堂にて開催されている「響きあう名宝展」に遊びに行ってきました。

【大蒔絵展】
先ず始めに言いたいのが、展示内容がボリューミーなため、時間に余裕が有る日に行ってください。隙間時間に足を運ぶのはお勧めしません。

さて、今回の大蒔絵展はMOA美術館、三井記念美術館、徳川美術館の3館共同開催とのことで、入口の平安時代から出口の現代に至るまで時系列にて蒔絵や逸品を展示しています。

豪華で鮮やかな蒔絵箱の所持者はさぞ愛着が湧き大切に使われていたことでしょう。
”本当に何百年も前の品物だろうか”と思いたくなるクオリティに釘付けです。日本伝統工芸の極みです。

個人的に気に入った作品は蒔絵ではなく、酒井抱一の掛軸でした。
とても上品で繊細な画に没入させられました。

大蒔絵展、東京博物館の国宝展に合わせてきたかのような内容で大変満足しました。

どうしても都合がつかず行けないと諦めている方は、公式よりVRで無料公開していますのでこの機会にご覧になってみてください。(VRゴーグルが無くても視聴可能です。)

大蒔絵展東京会場無料公開

【響きあう名宝展】
世田谷から丸の内への移転記念として行われた名宝展。半予約制で平日にも関わらず沢山のお客さんで賑わっていました。
内観も豪華な作り込みになっており、作り込みをただ眺めていらっしゃる方も居た程です。

今回の目玉である曜変天目を初めてお目にかかりました。
”宇宙の器”の名の通り眼福でございます。言葉が何も出てきません。
照明の具合で見方が変わるとのことだったので、機会あれば違う演出で見てみたいものです。

足を運べない方には朗報!見逃し配信サービスのTVer.で名宝展を期間限定で配信しています。是非ご覧になってみてください。

ぶらぶら美術・博物館

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【横山大観とは?富士山の画といえばこの男】

こんにちは!《骨董品・美術品専門のオークションサイト》サムライオークションスタッフの利休です。

横山大観(1868〜1958)は、生涯に1500点もの富士山を描いたといわれている画家です。近代日本画の巨匠としても崇拝されていて「大観といえば富士」といわれるほど今でも人気が続いています。

絵の世界に足を踏み入れたのは20歳と、語り継がれる偉人としては決して早くないスタートでした。20歳の頃、英語学校で英語を学んでいましたが、美術学校が創設されると聞いて心が動き、画家を目指すことを決めて父の友人から3ヶ月のみ学んで受験に挑み、見事合格するのでした。そこで生涯の師となる岡倉天心と出会いました。

その後、岡倉天心を中心に日本美術院を設立します。しかし、そこで描いた作品は世間から非難を浴びてしまいます。新しいタイプの日本画は世間の理解が得られなかったのです。

その後も作品はほとんど売れず、妻、弟、娘を失い、美術院は経営難となってしまいます。新築の家は全焼し、生活は貧しく不幸続きでした。

横山大観は当時のことを「私と菱田君は餓死寸前まできていた。しかし、私たちはそれに屈しないで自己の信ずるところに進んだ」と語っています。

明治から大正に元号が変わるころには横山大観の芸術作品も世間に広く認められるようになってきます。以前は新しいタイプの日本画として非難されていたものが、時代が追いつき世間の関心を集めだしました。

また、横山大観は「春・夏・秋・冬だけでなく朝・昼・夜とまた異なっている」と富士山の絵をたくさん描きます。生涯描いた富士山の画の数は1500点にも及びました。亡くなる直前に仕上げた作品も富士山だったようです。 最後まで自己の信ずるところに進んだ結果だったのでしょう。

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