【作家が嫌いだから、作品も嫌い、これってどうなの?】

こんにちは!《骨董・美術品専門のオークションサイト》サムライオークションです。

今、日本には、鑑賞者を静かに待っている有名な美術作品が沢山あります。特に国立西洋美術館で3月から開催される予定だった《ロンドン・ナショナル・ギャラリー展》。日本初公開の61作品、しかも美術史に名を残す、ビッグネームばかりです。

本日時点で開催予定日は未だ確定しておらず、本当に開催されるのか、心配になってしまいます。どうなるんでしょうか。

ところで、アートに限らずさまざまなジャンルで、作家が嫌いだから作品も嫌い、という方がいらっしゃいます。ピカソの作品はおもしろいけど、愛人を沢山作って女性を不幸にしたから嫌いとか。ワーグナーのオペラの偉大さはわかるけど、ヒトラーに応援されていたから、ポリシーとして作品を聞かないとか。

私は、作家と作品は別人格だと考えています。確かに優れた芸術作品は、作家の何らかが表出されたもの。したがって、作家が嫌いだから作品も嫌いというロジックは理解できるのですが、仮にその作家が作品で表現したかった《何か》は、あなたが嫌いな人格とは関係のない、人類に共通の《想い》であり、それを感じることで救われる人も沢山いる、という事はありうると思います。だとすれば、作家が嫌いだからと言って、特にビッグネームの作品を、食わず嫌いしてしまうのは、恐ろしくもったいないと、そんな気がします。

私は、スペインの画家ゴヤを尊敬しているのですが、その最も表現力に溢れた、一度見たら忘れられない『わが子を食らうサトゥルヌス』を、家に飾りたいとは思いません。ギリシャ神話を題材にしたこの作品は、示唆に富んでいますし、いつかプラド美術館でゆっくり鑑賞したいとは思いますが、手元において愛でたいという気にはならず、それはなんというか緊張を強いられるから、そんな理由だと思います。

以前、ある外資系金融のディーラーから、この作品が好きで自分への戒めのためにたまに見るのだと聞いて、とても納得した事を憶えています。ひょっとすると私にはまだその作品を鑑賞する実力とか、力量がないという事なのかもしれないと。

ある種の作品は、鑑賞者にも、鑑賞するための何かを求めてきます。その求められている何かを持っていなければ、作品側から受け入れらない、つまり好きになれないとかよくわからないとか、そんな事になるのかもしれません。やはり、学び続けること、成長していくことは、人生にもアートを楽しむのにも大切ですね。 サムライオークションは、皆さんに楽しんでいただけるサイトへと成長していくことを目指しています!

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