【技が拙いから拙宗と名乗ったの??】

こんにちは! 初心者大歓迎の《古美術専門オークションサイト》サムライオークションです。

10月27日の朝日新聞に、雪舟の三幅対の水墨画が国内で初確認されたニュースが掲載されていました。そのニュースの中で初めて知ったのですが、雪舟(せっしゅう・1420〜1506年)が若き日に拙宗(せっしゅう)を名乗っていたという事実。

記事では、雪舟の三幅対(三幅の掛け軸が一組になった作品)として現在確認できる作品は、米ボストン美術館が所蔵する「三教蓮池図」だけであることや個人の所蔵者からの依頼によって、山口県立美術館が鑑定して若き日の雪舟(拙宗)筆と認定したことなどがまとめられていました。

三幅対は、中央に宗教性の強い主題の画を配置し、左右に宗教性の希薄な主題の画を取り合わせて楽しむ鑑賞方法のひとつで、室町時代に将軍家などの上流武家の間に広まっていたそうです。いわゆる仏画、宗教画に位置付けられます。

それよりも私が気になったのは、若き雪舟の名前「拙宗」。それで、少し調べてみたのですが、雪舟と拙宗は別の人物だと考えられていた時代もあったようです。備中国(現在の岡山県)に生まれた雪舟は京都、そして周防国(現在の山口県)と住み替え、1467年(応仁元年)に遣明使として中国に渡り才能を開花させたと言われています。この周防国時代、30代後半頃までの名乗りが拙宗だったようです。

拙宗時代の作品には、のちの雪舟作品に見られるモチーフや筆法が見られるようですが、まだ穏やかで柔らかいタッチが多く、如拙(じょせつ・生没年不詳)や周文(しゅうぶん・生没年不詳)の影響が指摘されています。どうやら、まだまだ技が拙いと感じていたから拙宗を名乗っていた、というわけではないようです。

今回確認された拙宗筆の三幅対の作品は、山口県立美術館【雪舟の仏画ー初公開の《騎獅文殊・黄初平・張果老図》を中心にー】展〔11月2日(土)〜12月8日(日)〕で公開されます。

【売れるものを創るから、売れない】

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日本を代表する木彫作家平櫛田中(ひらくし・でんちゅう/1872〜1979年)。田中の出身地、岡山県井原市にある『井原市立田中美術館』では、11月10日(日)まで《没後40年平櫛田中美の軌跡》展が開催されています。

田中の作品で有名なものに、井原地方の古い伝承に基づく《転生》があります。生ぬるい人間を、口から吐き出す鬼の木彫。絵面的には、フランシスコ・デ・ゴヤの《我が子を食らうサトゥルヌス》と同様のインパクト! でも、表面的な意味合いは真逆という面白さ。また、田中のアーティストとしての意志が表されている《尋牛》という作品も表現の奥行きが広く、大変に魅力的です。

田中が岡山県から上京し、高村光雲のもとで仏師を目指したのが1898(明治31)年。ただ「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動の影響で、仏像の需要はほとんどなくなってしまいました。そんな時、田中は岡倉天心(おかくら・てんしん)と出会います。

彫刻家としてどのように生きてゆけばよいか、彫刻の実用性に目を向けてどのような作品を作れば売れるのかを相談した時、天心は「売れるものを(と考えて)創るから売れない、売れないものを創れば必ず売れる」と諭したそうです。そのアドバイスがあってかその後、売れる作品作りではなく、アーティストとして自らの表現を追求する道を選択した田中。《尋牛》という作品には、自分の求める道を模索する田中自身の姿が投影されていると考えられています。

アーティストにその生き方までを諭す岡倉天心、そして素直に納得し自らの表現者としての意志を定めた田中。二人の出会いと田中のその後の運命が大変に感慨深い逸話です。

サムライオークションも、古美術ファンの皆さんの指針になれるようなサイト運営を目指していきたいと思っています!

【中村不折のターニングポイント】

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夏目漱石の処女小説『吾輩は猫である』の挿絵画家としても知られる、中村不折(なかむら・ふせつ/1866年〜1943年)。明治、大正、昭和に活躍したバラエティに富んだ作品を残したアーチストです。

古美術マーケットでも根強い人気を維持しており、特に書画は定期的に販売されています。サムライオークションでも過去に作品を公開。今年も多くの落札情報を目にして、当オークションでも注目しているアーチストです。

洋画家、書家とプロフィールに書かれる事が多いですが、日本画も巧みで水墨画なども古美術市場に出品されています。

洋画家としてキャリアを積んでいった不折は、1895年に正岡子規とともに日清戦争に従軍記者として中国に赴任します。そこで書に出会ったことが自身のターニングポイントとなり、書道研究に傾倒するようになります。

中国赴任中のこの時、不折は中国、朝鮮半島を巡り、漢字成立を解明するような考古学資料を入手し、そのまさに古典から影響を受けて、独特の斬新な書風を身に着けていきました。

その後、1908年に発表された『龍眠帖』は、書道界に一大センセーションを巻き起こします。そのデザイン性の高さと親しみやすさから、不折の文字は店名や商品名のロゴに用いられることも多かったようで、『新宿中村屋』の看板文字や清酒『日本盛』、『信州一味噌』のロゴマークに、不折の仕事の足跡を今も身近に見ることができます。

1936年に台東区根岸の旧宅跡に、私財にて書道博物館を開館し、現在も開業中(現在は台東区立で運営)。JR鶯谷駅から徒歩5分です。重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財展が展示されているので、書に興味がある方は、ぜひ一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

サムライオークションでは、書画のオークション出品も大募集中です! 

書画に強い古物商の皆さん、ぜひサムライオークションをご活用ください。

【時代の変化に適応し続けたクリエイター《河鍋暁斎》】

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サムライオークションでもその作品が公開されたことのある日本画家、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい:1831年〜1889年)。大政奉還(1867年)から戊辰戦争(1868年〜1869年)を経て明治の世となり、江戸が東京になって日本が急速に変化していった時代に、その画力を自由に開放しながら、自らをアップデートし続けました。

6歳で歌川国芳の弟子となり、浮世絵の技術を学んだ後、狩野派の絵師前村洞和に師事して狩野派の門弟になります。そして狩野派の画法を19歳までに身につけた暁斎は、四条円山派や琳派など日本古来の画法も独学で広く学んでいきます。

暁斎が、いわばプロとして独立したのが幕末頃。依頼があれば断ることをせず、真面目な仏画から浮世絵、ユニークな戯画や風刺画まで、幅広いジャンルの作品を制作し、糊口をしのいだといわれています。

当時の幕府の政策と長州の対立を揶揄したり、明治改元後にも新政府の盲目的な西洋崇拝を風刺し、当局を侮辱したとして投獄されてむち打ち刑に処せられたこともあったようですが、その反骨精神はどこから生まれてきたものなのか、もっとその人物像を知りたくなります。

その後、新時代の大きなうねりの中でフィラデルフィア万国博覧会に肉筆画を出品したり、海外の多くの美術関係者と交流を持つようになり、その名声は世界へと広がっていきました。

暁斎が眠っているのが、谷中にある瑞輪寺。暁斎自らが画題として好んで描いた蛙に似た自然石が墓石に使われています。サムライオークションのオフィスに近いので、ぜひ一度お墓参りにも行ってみたいと思っています。

変化の大きな時代に、柔軟な思考とセンスで自らの画力を発展させていった暁斎にならって、サムライオークションも変化を恐れず、骨董・古美術市場の活性化に挑戦していきます! 

販売チャネルを広げたい骨董・古美術商の皆さま! ぜひサムライオークションをご活用ください。

【失われる美術館でプリミティブアートを味わう】

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サムライオークションを訪ねてくださる、古美術愛好家の皆さんは、プリミティブアートはお好きでしょうか?

辞書的に言えば『先史時代の原始的造形芸術。または、現代芸術において、特に未開民族の造形物にインスピレーションを受けた表現』(デジタル大辞泉より)ということになります。日本で言えば、縄文土器の土偶や、オーストラリアの原住民アボリジニアートなどが有名です。

芸術的な訓練を受けていない人が制作したアート作品に【アウトサイダー・アート】、または【アール・ブリュット】と呼ばれるものがあります。プリミティブアート同様に、それらは現代の芸術的文脈・技法の他にも、純粋な自己表現としての創作活動が存在することの証明でもあります。

シンプルな線やカタチ、ビビッドな色を用いた表現によって、鑑賞者は和んだり、驚いたり、悲しんだりと心を揺さぶられ、想像を膨らませます。これぞ、美術鑑賞の楽しみだと思います。

品川駅から歩いて15分ほどの閑静な住宅街にある原美術館では、8月10日〜2020年1月13日まで、画家・彫刻家である加藤泉のプリミティブアートを思わせる作品展【LIKE A ROLLING SNOWBALL】を開催しています。

人にも動物にも宇宙人にも見える加藤泉の作品が、原美術館の敷地内に展示されており、そのさまざまな素材からなる作品に、日常を忘れて思わずホッとすると同時に、なぜか人と自然、環境などについて考えが飛んでいくのが不思議な体験でした。

2020年12月をもって閉館予定の原美術館。個人の邸宅だった面影が効果的に使われている展示スペース、静かで美しい庭園とレストランなど、お気に入りの美術館が失われてしまうのはとても寂しいです。

サムライオークションの骨董・古美術ファンの皆さまも、お時間がありましたら、ぜひ一度足を運んでみてください。

【魯山人の目利き力について】

こんにちは! 初心者大歓迎の《古美術専門オークションサイト》サムライオークションです。

前回に続き魯山人です。漫画『美味しんぼ』に登場する海原雄山のモデルとしても知られる魯山人ですが、陶芸でも料理でも革命を起こした孤高の芸術家です。

魯山人が37歳の時に友人中村竹四郎とはじめた古美術商【大雅堂(たいがどう)美術店】では、骨董として店で扱う器に合う料理を自らが作り、常連客にふるまっていたそうです。

その料理が評判となり、お金に糸目をつけずに美味しいものを食べたい、という政財界の大物たちが大雅堂を訪れるようになり、会員制の【美食倶楽部】が誕生します。

魯山人は、料理人としても一流だったようで、贅沢を尽くした一流の人物たちがこぞって食べにくる味もさることながら、その取り扱う器にこそ、本当のこだわりがあったようにも思います。そもそも骨董を売るための料理だったのですから、当然といえば当然です。

魯山人が好んで使っていたのは、まず道具としての機能性が高い器。例えば、手取り皿のような小さな大きさの器なら、手に馴染む、使い勝手の良いデザインのものでした。

また、料理の盛り付けについても、現代風に言えば、まさにインスタ映えを目指して、食材の配色と色柄のバランスを考え、器を選択していたのでしょう。

まずは、道具としての機能性(使いやすさ)を考え、客人へのおもてなしの気持ちから遊び心が生まれ、盛り付けで料理を演出する。

独自の美意識によって選ばれた器と、高級食材によって作られた料理、どちらも不可欠なものであり、そこに美意識の育て方、美の鑑賞方法、ひいては目利き力を養うためのヒントが隠されているような気がします。 サムライオークションでも、骨董・古美術品の楽しみ方など、コンテンツを充実させていきたいと考えています。これからもどうぞご贔屓に!

【日本を代表する美の巨人! 北大路魯山人】

こんにちは!《古美術専門のオークションサイト》サムライオークションです。

陶芸家、書家、画家、料理人と多彩な才能を持ち、それぞれが高いレベルで評価されている北大路魯山人(1883年〜1959)。若い方でもその名前は聞いたことがあると思いますが、その才能がどれほどのものか、おそらくピンと来る方は少ないのではないでしょうか。

まさに時代に先駆けた日本のマルチアーチスト、美の巨人です。今後もこちらのブログで取り上げることもあると思いますが、今回はプロフィールとして、その人物のアウトラインをご紹介します。

魯山人は、京都府上賀茂村に上賀茂神社の社家(現在の宮司)の家に生まれます。本名房次郎。士族(当時にあった身分制度)の家柄でしたが、その生活は貧しかったようです。その出生の秘密に端を発した父親の割腹自殺が、その後の魯山人の人生に大きな影響を与えたことは、想像に難くないと思います。

魯山人の特長としてまずご紹介したいのは、彼のアーチストとしての才能を開花させた特別な師の存在がいないこと。書も陶芸も画もそれぞれ独学にてその才能を開花させていきました。

どの分野においても、大家と呼ばれる人々には『スタイル・型』といわれるものができてきます。模倣するような存在を持たず、独学だからこその自由な発想と美意識の醸成が、独創的な創作活動を可能にしたのではないでしょうか。

そんな魯山人は、一流の陶芸家として評価されると同時に、骨董・古美術の目利きでもありました。友人の中村竹四郎と共同で骨董商【大雅堂(たいがどう)美術店】を経営していたことでもあきらかです。

幼少期の厳しい生活環境から、独学によるアーチストとしての成長、信頼できる友人を得て骨董商を営み、そこから会員制料亭【美食倶楽部】が生まれ成功を収めていく、なんだかドラマチックですね。

サムライオークションメンバーも、目標は大きく魯山人の目利きを目指して! サイト運営を行っていきたいと思います。 次回も引き続き、魯山人の話題をとりあげますので、お楽しみに!

【歴史を身近にし、リアルな空想の世界へと旅立つ】

こんにちは! 初心者大歓迎の《古美術専門オークションサイトサムライオークションです。

今や本家のAKBよりも、メディアでの露出が増えている乃木坂46。

『コンセプトがない』ことをコンセプトにし、ミッションが『AKBのシャドーキャビネット』など、当初よりユニークなマーケティングが標榜されており、秋元康恐るべしなのですが、この『乃木坂』のいわれについて、若いファンの皆さんはどのくらい認識しているのでしょうか。

『乃木坂』は、かつてこの地に住んでいた大日本帝国陸軍の大将、乃木希典(のぎ・まれすけ)の殉死を悼んで1912年(大正元年)9月に命名されました。

乃木希典は、軍人としての功績には議論の余地があるようですが、武士道精神を有する日本人として、同時代に生きた人々にとっては、大変魅力的なカリスマだったのだと思います。

その乃木希典による肉筆の掛軸がサムライオークションに出品されています。

→乃木希典:軍事郵便:消息:肉筆

https://samurai-auction.com/exhibition_detail.php?ex_code=571

乃木希典が渡部鼎(わたなべ・かなえ)少佐(手紙発送時点)に送った、軍事郵便です。著名な軍人の達筆な手紙は、書として再構成され、立派な掛軸として成立しているのがおもしろいですね。

おそらくは、乃木大将のファンであったであろう蒐集家が、その直筆書類を入手し、横軸に表装したのだと思います。

乃木希典について興味をお持ちの方はもちろん、この軍事郵便を掛軸に仕立てたコレクターについても、どのような気持ちでこの書を眺め、大切にしていたのか、想像するのも楽しいです。

歴史上の人物の足跡を身近にすることで、一気にリアルな空想の世界へと旅立つことができます。 これが骨董・古美術の持つ、大きな魅力のひとつですね。